【映画】2012
ゴジラ。。。日本生まれの巨大なトカゲがNYをかけずりまわる!(すばらしいCGで)
インデペンデス・デイ。。。宇宙から飛来した巨大なUFOがNYを破壊光線で焼き尽くす!(すばらしいCGで)
デイ・アフター・トゥモロー。。。 超大型低気圧(スーパーストーム)が、NYを氷漬けにする!(すばらしいCGで)
そして今!ついに地球は崩壊する!しかも舞台は NY のほかにチベットだ!(すばらしいCGで)
ある意味、とてつもなくハリウッド・テイストなローランド・エメリッヒ監督の放つ、あいかわらずの超大作。
アメリカ大統領は、どいつもこいつも立派なやつで身を挺して、この事態に真正面から立ち向かい、「仲が悪かった家族」が、最後には、互いに相手を思い助け合う。
起きた事態は、たかだか人間では、どうにもならず、なんの解決もしないが、なぜか事態が落ち着き、晴れ間が見えたら、家族は抱き合い THE END!
というおなじみの作風は、今回も全く同じで、2009年・・・2010年・・・2011年・・・2012年、と、15分ほどで進み、もう、その時に は、すでに、地球は滅亡に突入する。
あとは、ひたすら、すさまじいCGで、地震・津波・大噴火が描かれる。
エメリッヒ作品の醍醐味のひとつは、この、世界規模の破壊映像だ。
人間は身勝手だ。
本来の科学は、自然現象の発見であるにも関わらず、自然現象を創っているかのような錯覚に陥り、科学が自然に対して何かが出来ると、思いあがってもいる。
家族だ、仲間だ、と、勝手に会員制チケットクラブをつくり、仮想敵に対して冷たくあしらう。誰かが好きだから、こいつは嫌いだ、だから知ったことではない、と、まるで、子供の食べ物の好き嫌いのようにあらゆることが他人事。
そして、地球は壊滅しない、と、おごる。
自分でさえ、100年も満たないうちに滅び去る事実を目の前にしてさえも、人類は滅びないと断言する。
だが、そんなことをしていても、地震・津波・大噴火、溶解する太平洋プレートの前にはほんのわずかな抵抗力にさえならない。それは、オレ様や、オレ様の仲間が、地球という大自然を維持していないし、コントロールできないことを意味する。絆も仲間も団結も一致も気持ちも願いも祈りも、地球の生命活動には、何の影響もないほどに小さく、ましてや「地球環境を守る」術など、人間にはない。
映画では、無慈悲に、豪快に、アメリカは破滅する。
(脅威のCGで)
そして、事態は何の解決も観ることなく(なにしろ、人はチッポケだから!)聖書のノアの方舟と世界の大洪水に見舞われる。
その中で大事なメッセージを発する。
「助け合わなくちゃ」
「好きも嫌いも関係なし。家族でも、そうでなくても関係なし。人と人は助け合わなくては」
気恥ずかしいほどのメッセージだが、それは真理である。
映画の宣伝では「ディザスター映画」と銘打ち、これは、そのディザスターぶりを楽しむ作品であることを明示しており、また、エメリッヒ作品なので、単純明快で、どこか楽観的だ。登場人物は、みな希望を持ち、絶望に打ちひしがれるのは「オレさえ助かればいいのだ」と考え、他人を蹴落とすカンダタのような人物だけだ。
その希望が「救い」であり、「現状への不満」が「救いようのない状態」なのだろう。
そんな意味では、聖書的であり、どこか仏教的でもある。
マヤ族は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていた。この暦は2012年の冬で終わっている。オカルトマニアやニューエイジの間では、この、「マヤ暦の終わり」に、ホビ族の予言や、ありとあらゆる世界終末の話が、練りこまれ、すっかり「マヤ族が世界の終わりを予言した」ことになっているが、そうではなく、そのほかのみなさんが、終末を予言しているところに注意が必要だ。マヤ族のみなさんは、単に、来年のカレンダーをつくっていないだけに過ぎない。
主な終末論では、フォトンベルトに太陽系が突入し、地軸がずれ、新しい惑星が生まれ、太陽が爆発し・・・というようなものが多い。
映画「2012」では、”惑星直列”により、重力が乱れ、巨大な太陽フレアが発生し、地球のコアが溶解、プレートが寸断され・・・と、”ノストラダムスの大予言”から、”日本沈没”まで、「マヤ暦の終わり」と絡めて、人気のありそうな終末理由が、いろいろと合体された、ポピュラーでわかりやすい構成となっている。
劇場の大スクリーンで観るにふさわしい快作。
俳優の演技?今回の主役は、あくまでも崩壊する地球。エメリッヒ作品に俳優の演技をどうのこうの言うほど野暮じゃありませんよ。
生命・天災について再考させられる作品。