【映画】カムイ外伝(実写)
カムイとは、アイヌ語でいうところの「神」「自然」「精霊」。
アニミズムの一種だが、聖書の神様とは別のものだし、いわゆる「神さま」とも全然別物で、人間と対等の位置に立つ異星人とでもいえばいいのか。
しかし、この「カムイ」は、そのような大袈裟な意味はなく、単なる、個人の名前である。
カムイは、ほかの忍法もの作品とは、一線を画す。
SHINOBI、魔界転生などの「忍法帖もの」に登場する荒唐無稽な”忍術”ではなく、ありえる範囲の忍術合戦で・・・・ ということもあるが、そんなことよりなによりもカムイの出身が、被差別部落(同和地区)で、貧乏で、激しい差別をうけ、自由など何もないところから、自由になりたくて、忍者になったはいいけれど、人殺しばかりの毎日に、厳しい掟から、また、自由になりたくて、抜け忍となり、逃避行を・・・
『カムイは自由の身になれるのか』
といったところにストーリーの根本があるところが、他の忍法もの作品との大きな違いだ。
差別と体制、そして自由。
本作でいう自由とは何をやっても好き勝手の「個人の自由(わがまま)」ではなく、体制からの解放の意味だ。
当然、リスクをかかえることになる。抜け忍は、死。そのリスクと戦うことになる。
エンターティメントというより、おしきせがましい文学に近い。
さて、いまどき、被差別部落、非人もそうだし、抜け忍を描いて、画になるのか。いや、そもそも、”強い忍者”、”戦って勝つ忍者”ではなく、ただ、生きるために逃げる主人公が、映像になりえるのか。
そう思って、劇場に足を運んだ。
「なんとも中途半端」
たしかに荒唐無稽な忍術は登場せず、走る、罠、毒殺、諜報活動と、ありそうな忍術ばかり登場する。漆黒の衣ではなく、やや柿色の戦闘服や、野良着のまま戦うその姿は、リアルっぽいかも知れないが、決して、史実に基づいている描写ではないので、そこに、こだわっても仕方がない。
むしろ、「荒唐無稽」な忍術を否定せずに、自由にアクションを描いたほうが、よほど”それらしい”かも知れない。
そして、予想通り、被差別部落の描き方が、「ただのビンボ人」だったのは痛い。これでは、せっかく、主人公が「おれは、人間だ!」と叫んでも、明後日の方向に砲丸投げをしてるようなものだ。
人間扱いをされなかった、こと。そのことを、しっかり描いていなければ、ビンボがイヤで金のために忍者になったカムイということになってしまう。なにゆえ、自由を欲したのか。そこは、きちんと描くべきではなかったか。
体制としての差別。人間が人間を見下し、人間が「あいつは人間ではない」という社会ルール。それが、人間になるということ(はじめから人間だが)が、自由ということではないだろうか。
カムイは、人間として、自由になりたかった
ということが、描けていないのは、中途半端にもほどがある。残念。
当然、追忍に追われ命を狙われるのも、ただ単に「ルール」だから。
当然、カムイが逃げるのも「生きるため」ではなく、「殺されたくないから」
当然、いろんなところで登場する「村」は、ただの「村」。
とても、生活そのものに生死がかかっているようには思えない。
生死がかかっていないのに、命がけで、殿様の馬の足を切って、それで疑似餌をつくり。去年は負けたが、今年は勝った、と、大漁の魚を、みなにふるまっている姿は、生死がかかっている、というよりは、単に、マニア。
趣味のために、殿様の馬を殺すような、ひどいやつ。
なんで、そんなやつの命を助けたり、してんだよ、カムイ。
最初から、話が破綻しているようにも思える。
いまひとつ、抑揚がない。
重要なテーマが、しっかり描けていなかったため、シーン、シーンがつぎはぎにつながっただけ、という印象が拭えない点で桂作とは言い難い。
B級として捉えて、「ひかりごけ」より、おもしろいよ、として観ると、けっこう楽しめたりするんじゃないかと。