【映画】ハプニング
オチが大変つまらないナイト・M・シャマラン監督。筆者はあまり好きではないのだが、本作「ハプニング」はR-18 版 予告編など、随所に PG/Rレイトのこだわりがあり好感している。
ある日の公園。道行く人々が突然足をとめたかと思うと、意味不明のことを繰り返しつぶやきはじめた。読書を楽しんでいた若い女性は、髪止めを抜いたかと思うと自分の頸椎に突き刺した。
同じ頃、高いビルの工事現場では、作業員が次々と屋上から飛び降り始めた。
雨のように降ってくる人間と、地面に落ちて血まみれになった大量の死体。
異変は大都市を中心に突然起こり、次々と人々が自殺を始めた。
いったい何が起こったのか。
テロリストの細菌攻撃か?原因不明のまま、ともかく事態の深刻化する「自殺病」から逃れようと、仲違いの真っ最中の夫婦らは友人と都会を離れる。
しかし「自殺病」は、どこまでも追ってくる。
木になる果実のように大量の人が首つり自殺をしている森。ライオンに腕をかませ、もぎとられ血まみれになって自殺する猛獣使い。大型芝刈り機のスイッチを自分でいれて、機械の前に寝そべり自らミンチ肉になる高齢者。自ら運転する自動車を大きな木に激突させる家族。そこで、生き残ってしまった数学教師は、車の破片を手にとり無表情で熱心に自分の手首を掻き切る。シャマランにして、めずらしく、音や雰囲気でビビらせる手法はあまり使わず、これでもか、これでもかと、残虐な自殺シーンを映像として具現化。そこらに転がっているスプラッターまっさおの作品に仕上がっている。
それがまた、自殺だというのだから、すさまじい。
元ネタは、世界中で起きているミツバチの大量失踪現象から、それを「人類」にあてはめたとのこと。
作中では、科学の教師が、「犯人は自然(草や木)。自殺しろというフェロモンを出して、人間の自然破壊から身を守っている」と、なんとも、うさんくさい原因を言及している。
しかし、自然はそれくらいのことはするだろう、と、筆者はあっさり受け入れているところがある。地球温暖化、自然破壊、乱獲、乱開発、大きな人間のおごりであることには間違いがないが、「地球を守る」という文句を観ると、それはそれで、また大きな人間のおごりであろうと思っているところがある。
地球・自然環境に守られているのは人間の方であって、感謝し、大切に扱うのが肝要ではあるが、「地球を人間が守る」とは高慢すぎるのではないか、そのような力や支配権が人間にあるのか、と懐疑的だったりする。
本作の科学の教師がつぶやく「うさんくさい原因」についても、人間がおごれば、それは報いとして、自然がそういう”運動”をしても不思議でもなんでもない、とも思ったりしている。
殺人事件に戦争、さまざまな「人間が原因」の死の恐怖はあるが、病気、天災、寿命、どれほどあがいても人間には解決できないとてつもなく強大な死の要因はあり、恨み言を言い、死刑だ、終身刑だと言ったところで、どうにもならないことが、この世には多すぎるほど多くある。
なにしろ、いまだかつて、有志以前にも、死なない人間などいない。
一度も死んだことがなく、今後も絶対に死なない人間など、1人もいない。
死は、人間では解決できないのだ。
自殺であっても天寿をまっとうしても、死ぬことには変わりがない。しかし、人間は、死の恐怖に支配され、さまざまな研究がなされ、あるいは、それを口実に人殺しもしてきたが、解決したことは何もなく、死も克服していない。このままどんどん努力しても、死を克服することはできない。それほど、大きな恐怖=死。
ところが本作では、すすんで自動的に、ごく普通に、自殺する。
あらゆる人が大量に自殺する。
まだ正気の人たちは、死から逃れるべく必死で逃げる。
異様な状況設定にして、実は、日常的に私たちが生きている現状と、あまり差がないことには驚かされる。
ネタバレになるが最後のシーンでは
「このまま、こうして逃げても、いつかは追いつかれ、自殺する」ことを覚悟した主人公ら。
死から逃げ惑って死ぬより、「君と抱き合って死にたい」と、”自殺病”から逃げ惑うことをやめ、死をも受け入れ、愛をしめそうとする。
小さな家族愛をしめした、この家族が、どうなったか。
また、自殺病の蔓延したこの世はどうなったか。
本作を観て自身で確かめていただきたい。
それにしても、変な映画だ。
オリジナル脚本と、詐欺的なラストで人を欺く作品を次々と発表してきたシャマラン。そろそろ、ネタ切れのようで、最近は何をやってもパっとしない。才能が枯渇したようにも感じるが、スランプを脱して、また、おもしろい作品を発表してもらいたいものだ。