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★ The Tsuchinoko News 2 (つちのこ通信2) ★

重要な話から、どうでもいいことまで。ほとんど役に立たないことを書き連ねています。

【映画】あしたのジョー

今日から3回連続あしたのジョー。3部作というわけではなく個別でバラバラに製作公開された3品について書くつもり。まず1回目は、つい最近公開された2011年度版。これがもう酷いの何の(笑)どこまでも偽善的で、学芸会かと。

著名なボクシングマンガが描かれたのは1960年代後半から70年代初頭。時代背景としていわゆる高度経済成長の時期で、戦後の壊滅的な状態から、死にものぐるいで頑張れば誰もが出世可能だと信じられていた時代で、反面、失敗すると、あるいは取り残されると、本作で描かれる”ドヤ街”に(作中のセリフでは、一生ここから抜け出せない)と、勝者・敗者のはっきりとした時代であった。
そこに、拳闘すなわちボクシングという、勝者・敗者のはっきりとわかれる格闘技(スポーツ)の世界を絡ませ、死ぬだの生き残るだの非常に過酷で生死が関わる”結果”を描きつつ、矢吹ジョーという主人公の成長や挫折、青春、孤児でありホームレスであり犯罪に手を染めた彼が、更正する人生譚を描く。ライバル力石徹の異常なまでの減量と死など、かなり深刻な物語で、それが、この時代とマッチしていたのだ。

2011年になり、経済は飽和状態で、いつ誰が破綻するかも知れない状況下、既得権益にしがみつき勝ち組・負け組と経済的な意味での二極分化が進む現代では、60年代の高度成長のような努力・我満・最後には勝つといったことの意味が失われ、長く続くデフレ不況のせいか、そもそも血のにじむような泥臭い努力や汗よりも、単に金メダルのような成果でしか評価されないような時代にあって、あえて、あしたのジョーの世界観を実写映画化するというので、どんな作品になるのかと思っていたら、マンガをそのまま駆け足的ダイジェストにして「力石死んだ物語」にしてしまっていたのは、筆者にとっては非常に大きなショックであった。

そもそも、主人公をはじめ、ライバル力石にしても、現代的な俳優のせいか、小綺麗すぎて、汗・血・努力、そうしたものとまったく無縁のように見えてしまうところからして興ざめであった。反面、丹下団平の気合いのはいったコスプレが、場にそぐわずこれも興ざめ。ヒロイン(といっていいのかわからないが)白木葉子も、思いっきり現代っ娘で、”ドヤ街出身”がどうのこうのとは、とうてい思えないほどに、無責任で軽い。そこに力石が少年院に収監された理由(新聞記者が、葉子がドヤ街出身だと書き立てようとしたので、殴った)が、どうしようもなく偽善的だ。

”ドヤ街”を出してくるのなら、そこで生きる人々の生死を賭けた生活感(それはつまり日常的に行われる犯罪も含む)を描かずして、泪橋を渡る渡らないは語れない。あしたのジョーという作品で、ジョーと力石の出会いがなぜ少年院なのか、少年院を出てリングに上がることがどういう意味を持つのかをきちんと描いていただきたかった。

マンガ(およびアニメ)の名シーンになると、コピーしたかのような絵にも興ざめだ。
どうせコピーするなら、わけのわからない設定変更などすべきではなく、まるまるコピーすればいいのだ(笑)どうせ学芸会なのだから(笑)


キャッチコピーは『この時代の若者に,ジョーはいるか?』。そのまえに、どういうジョーを描いたのか制作者は猛省すべきだろう。こんなジョーなら、いっぱいいるぞ、そのへんに。失礼ながらやはり監督が、生死をさまよう経験をしたことがないと、この程度なのだろうか。今すぐに、銀行強盗でもしないと明日には餓死する、本作には、それほどのせっぱつまった世界観が最低限求められる。