★ The Tsuchinoko News 2 (つちのこ通信2) ★

重要な話から、どうでもいいことまで。ほとんど役に立たないことを書き連ねています。

【映画】NY心霊捜査官

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エミリーローズで良質の「オカルト裁判」を描いたスコット・デリクソン監督による良質の「オカルト刑事ドラマ」である。

NY市警のラルフ・サーキ巡査部長は、他の人には見えないものが見えたり、聞こえない音が聞こえたり、”勘”のよいところがあった。人はそれを”レーダー”と呼んでいた。

ある日のこと、動物園で母親が子供をライオンの檻に投げ捨てるという事件があった。また妻に暴行を続ける夫という事件があった。これらの事件は無関係であるように思えたが、サーキには”何か”が見えていた。

事件には何者かに取り憑かれたかのような半狂乱状態の犯人と、ライオンと話すイラク戦争帰りのペンキ屋ミック・サンティノと、そして、一見して神父とはわからない長髪に革ジャンのジョー・メンドーサ神父がいた。

メンドーサ神父は、サーキの”勘”は”霊感”であり、その霊能力を使って事件を解決するよう助言する。サーキは、たった一人の「心霊捜査官」となり、事件の真相に迫るが、そこには想像を絶する恐ろしい存在が潜んでいた。それぞれの事件は、すべて、つながっていたのだ。

 

イラク戦争で派兵されたミック・サンティノは、そこで遺跡を発見、潜入、何らかの扉を開いてしまったらしく、何者か取り憑かれてしまう。帰国し、ペンキ屋となったサンティノは、壁に「INVOCAMUS」(召還の意)と書く。すると、それは扉となり、影響を受けやすい心の者が悪霊に取り憑かれる。悪霊は(サンティノは)次々と悪霊に取り憑かれた者をつくりだしていたのだった。

 

エクソシスト・コップ」という”実話”とされる原作があるらしく、このあたりは「エミリーローズ」と取り扱い方が非常に似ている。スコット・デリクソン監督のオカルト連作シリーズなのかも知れない。「エミリーローズ」では、主演女優の演技で全ての恐怖や絶望を表現していて、これといったVFX的なものはなかったが、本作では、VFXの嵐。気味の悪い死体造形のオンパレード。死体の腹が割れドス黒い内蔵が露出し、死体の目から虫がわき、全身複雑骨折の飛び降り死体、自傷で全身に血文字を描く男、R18なだけはある。

反面、イラクの遺跡のオープニングはエクソシスト。映像はセブン。陰影の濃い暗い画はエンゼルハート。聖職者とは思えない神父と神を信じない刑事、地下の監禁室での悪魔祓いは、エクソシスト3。オマージュというには多すぎる既出のシーン、見たことのある映像と話と演出が延々と続くのには、少々まいった。ハードボイルドで、良質のオカルトであることには間違いがないのだが、どこか大衆に媚びたヒット性を意識しすぎたところが見え隠れするのは残念であった。

せっかくの真面目な前半が、後半のてきとうな悪魔払いシーンで台無しにされた気がするのは、神父の罪・刑事の罪を、大してつついてこない悪霊と、それが昇華も浄化もされず、神の存在があいまいになっているところが原因しているように思ったりもする。

悪霊という陰の力の存在をリアルに描くのなら、物理学では存在証明さえ出来ない人知を超越した神の存在をリアルに示す必要があるだろう。エクソシストをオマージュに組み込むのならなおさらだ。また、エミリーローズを監督できるのなら、ことさらに、神の存在が不明瞭なのは、どうしたことだろうか。

どこかしら詰めが甘く、中途半端な作品であった。

一応「事実」なので、作品の最後に現実のサーキの”その後”が解説される。

市警を辞め、悪霊のスペシャリストたるメンドーサ神父と行動を共にしているとのこと。

だったらなおさら、単に「怖い悪霊」を描くのではなく、神とそれに背をそむける悪霊そして人間を描くべきだったのではないか。

疑問符のつく本作ではある。


映画『NY心霊捜査官』怖すぎる本編映像 - YouTube

【映画】寄生獣 完結編

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昨年暮れに公開された「寄生獣」の続編で完結編である(完結編といっても2部作なので前編・後編のような気もする。)

突如として現れた謎の寄生生物パラサイトは、人間の脳を乗っ取り、人間社会に潜み、人間を食料としていた。

ひょんな事故から脳を乗っ取られずに済んだ高校生・泉シンイチは右手に寄生生物を宿し、人間とパラサイトの混血となった。パラサイトは自らをミギーと名乗る。

パラサイトの存在を未だ知らない人間社会では連続猟奇殺人事件として警察の捜査が行われていたが、次第にナゾのバケモノ・寄生生物パラサイトの存在を知るに至る。

母親を寄生生物に殺害されたシンイチは怒りにまかせ、寄生生物をミギーとともに殺害していたが、焼け石に水、寄生生物は組織をつくり、田宮良子を筆頭に、市長として広川を擁立、市役所は寄生生物のコロニーと化していた。

しばらくして人間たちは寄生生物の存在に気づき、特別攻撃隊を組織し、市役所の寄生生物を皆殺しにしようと作戦を実行する。しかし、そこには、頭部、右腕、左腕、右足、左足、5つの寄生生物を宿した最強のパラサイト後藤がいた。

「この種を食い殺せ」人間に憎悪を抱く後藤と、人間たちの闘いが始まった。

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前作同様、なにしろ原作コミック9巻分を前編・後編で映像化しているので、非常に駆け足的に話しが進む。このあたりは監督の山崎貴の特徴というか弱点で、正直いって原作を知らなければ、さっぱり話がわからない。

前編で母親のエピソードを端折って作り替えたのと同じく、後編でも、”かな”のエピソードが端折られ、倉森のエピソードが作り替えられ、それでいて原作通りに話が進行するので、ついていくのが大変だ。

あまりマンガやテレビを見ない筆者だが、珍しく「寄生獣」については熱心なファンである。映画は映画、マンガはマンガと割り切って映画を単一の作品として鑑賞をする筆者も、話がツギハギ・ダイジェストで、頭の中で「マンガをペラペラとめくり」ああ、このシーンはこれだ、この前にこういうエピソードがあったはずだ、と空間を埋めながらの鑑賞となった。そうでないと話がよくわからないからだ(汗)

やはり前編で母親のエピソードを適当にあしらったのが致命傷で、田宮良子が子供を抱えながら死に、そこでシンイチが涙を流し、人としての愛情を思い出すエピソードが、かなり希薄。(筆者は、脳内変換したので、このシーンでは泣いた!)

山崎監督作品で、後藤のアクションを期待した筆者も悪いのだが、市役所での後藤のバトルが全部カット(笑)後藤は結局最初から最後まで、徒歩だけ(笑)というのは、ひっくりかえりそうになった(笑)

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脚本のまずさに加え、演出にも疑問が多い。主人公らはさておき、なにげに豪華な脇役陣。市長の広川に(なんと現代服はめずらしい)ネコサムライ北村一輝、最凶のパラサイト後藤に浅野忠信、売れないフリーのジャーナリスト(原作では私立探偵)倉森に大森南朋が、駆け足的ストーリー展開の中に、埋もれてしまって、影が薄いのも難点だ。このあたりは原作をなぞって前編後編なので仕方のないところもあるのだろうが、残念なところでもある。

反面、本作のCGの気合いの入れ方は山崎監督+白組にしてめずらしい。

基本的に猟奇殺人、人体破壊、血しぶき、暴力と、非常にアンモラルな内容で、遊星から物体Xを模した寄生生物パラサイトのぐちょぐちょモーフィングで、血だらけの肉の塊が画面を泳ぐ。昔はこれらを特殊メーキャップな技術で実現していたのが、これをCGでいうのだから、無理があるのではないかと思っていたりした。実際、前編では、いまひとつという感想だったのだが、本作では、冒頭からすさまじい量の血と肉。その勢いが最後まで衰えることなく・・・・後藤 vs 人間は期待していたのだが、全部カット・・・本当に残念だ(笑)ミキのバトルなんか要らないので後藤の方をやってほしかったものだ。

全般的には欠点も多い作品だが、それでも、ありがちな「肉欲・情欲・独占欲・ひとりよがりの一方的正義の押しつけ」を”愛”と言い換えたものではなく、「自己犠牲」と「他者(それは種が異なっても、敵であっても)への愛」を(原作が示していたように)きちんと描いており、非常に好感をもった。

たぶんBDは買うだろう(笑)

思えば、10年以上前にハリウッドでの映画化の話が持ち上がり、ハリウッドだとバケモノvs人間になってしまうと恐れつつ、結局、それがご破算になり、ここに至っての公開。感慨深いものがある。

惜しみない拍手を送りたい。

 

なお、コミックが原作のマンガ作品で、ポスターに「肉欲・情欲・独占欲を守れますか?」というキャッチコピーがあり、あたかも主人公の少年が、愛する少女を守り救うために、パラサイトと戦うようなイメージを打ち出しているが、詐欺なので気をつけていただきたい。正しいポスターは「君はまだ人間ですか?」だ。

(ちなみに筆者は人間ですか?と問われ「はいそうです」という自信がない(笑))

本作は、むしろ主人公の中の深い葛藤、そして、血しぶき、猟奇、人体破壊の作品である。まちがっても、デートや家族連れで楽しもうとしてはいけない。


「寄生獣 完結編」予告 - YouTube

【映画】エクソダス・神と王

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昨年公開のダーレン・アロノフスキー監督作品「ノア〜約束の舟〜」に続いて、聖書の第2巻「出エジプト(EXODUS)」を映画化した聖書もので、リドリー・スコット監督、クリスチャン・ベイル主演の”大作”である。

ユダヤ人(ヘブライ人)として生まれたモーセは、エジプトのセティ王の息子と、実子ラムセスと兄弟として育てられる。

ある日、モーセは実はユダヤ人(ヘブライ人)と密告され命を狙われるはめに。モーセは、エジプト王の息子という立場を捨てて逃亡するはめになった。

逃亡先で知り合った羊飼いの娘と仲良くなり結婚するモーセだが、神の御告げを聞く。エジプトの奴隷となっている民を助けよと。

モーセは”将軍”として、ユダヤ人(ヘブライ人)に戦闘訓練を施し、エジプト軍との戦いを画策するが、神は「黙って見ておけ」とエジプトに十の災厄を与える。災厄によってエジプト王ラムセスは、すぐに出て行け

ユダヤ人(ヘブライ人)を解放するが、しばらくするとまたラムセスは軍勢を率いてモーセ率いるユダヤ人(ヘブライ人)の命を奪おうと追跡を開始する。

モーセらの眼前は海。しかし海は干上がり、向こう岸へ渡ることができるようになった。そのとき、ついに追いついたラムセスら。だが、海は再び満ち、ラムセスらエジプト軍は全滅する。モーセらは、神から十戒を授かる。

セシルBデミル監督作「十戒」のリメイクともいえる本作で、負けず劣らずのスペクタクル巨編ぶり。CGの進歩(VFX)で、十の災厄から紅海渡りに至るまで、”神の怒り”のすさまじさ、容赦のなさが存分に表現されている。

とはいえ、筆者的には「なにかが違う」「これじゃない」感が強い。

まず物語の冒頭、モーセの出自が端折られすぎで、これでは聖書を読んだことがなければ、なぜモーセがエジプト王の息子なのか、そもそも実はエジプト王の息子ではないことさえ理解ができない。そこにパワフルなジェネラル(将軍)のモーセの強さ。剣をふりまわしバッサバッサと敵をなぎ倒す。モーセってこんな人物だったっけ?と、どうも感情移入ができない。

結局、エジプトに命を狙われ追い出されるハメになり、ミデアンの地で羊飼いとして暮らしというあたりまでが、駆け足すぎて(ダイジェスト版すぎて)話がさっぱりわからないのも致命的だ。

”燃えつづける柴”で登場する「神」が子供でという演出にも疑問符だ。そして子供のいうことを聞いて、とっととエジプトに戻り、仲間(ヘブライ人)にジェネラル(将軍)として軍事訓練をしているのも、よくわからない(笑)この設定と演出のせいか、時々、子供の姿をした神と、ケンカ腰で話したり、それで、バットマンダークナイト)を引きずったようなクリスチャン・ベイルも、いただけない。

兄のアロンは一瞬名前だけ。それより目立つ子分のヨシュア。原作にこだわるつもりはないが、あまりに、聖書のモーセとかけ離れたモーセには、少々興ざめであった。

10の災厄の時間が短く、エジプト王が”頑な”ではなく、”効いてない”的だったのも何だかな〜と思えば、クライマックスのはずの紅海のシーンも、あまりに淡泊。

結局、神が描きたかったのか、神の民を描きたかったのか、モーセというキャラを描きたかったのか、ラムセス王を描きたかったのか、さっぱりわからない仕上がりには、せっかくのリドリー・スコット監督なのに、残念としか言いようがない。

明らかにセシルBデミル監督版「十戒」に軍配があがる。

イマイチ感たっぷりの迷作だ。

モーセに兵装させてクリスチャン・ベイルというところから、いただけない。そんなのモーセじゃない(笑)

ネタバレで申し訳ないが、最後のシーンで、子供の姿をした「神」と言い合って、自分で石板に十戒の文字をトンカントンカン掘り「俺が従ってもいいと認めることだけ書く」とか言ってたのは、なんというか、それでは聖書じゃない気がして心が痛んだ。

本作には良心がない。

個人的にはダーレン・アレノフスキー監督版「ノア」の勝ち。


映画『エクソダス:神と王』本予告 - YouTube

【映画】インシディアス第2章

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「狡猾な」という意味の”インシディアス”。息子ダルトン幽体離脱の能力を持っていた。毎夜、夢の世界で幽体離脱をこれといった疑念も持たずに楽しんでいたが、そこには狡猾な霊・悪魔が潜んでおりダルトンの身体を乗っ取ろうと画策していた。ダルトンは死者の世界に連れていかれてしまった。現世ではダルトンがコーマになったと医者に診せるが埒があかない。しかし霊能力者エリーズが真相を語った時、実はダルトンの父親であるジョシュも幽体離脱の能力を持っており、幼い頃、老婆の霊に身体を乗っ取られるところだったことが明らかになる。エリーズは彼の記憶を封印、なんとか事をおさめた経緯があったのだ。父親ジョシュは幽体離脱の能力を覚醒、息子ダルトンを救うため、死者の世界へと向かう。救出は成功したかに見えたが、ジョシュを狙う老婆の霊が、そのままジョシュを乗っ取ってしまい。エリーズを殺害する。

ここまでが"インシディアス”(1作目)のあらすじ。本作”インシディアス第2章”は、この直後からの続編で、まるで日本の大作映画のような、そのまま続きという構成になっている。

ジョシュを乗っ取った老婆の霊。姿と形はジョシュだが、何かが違う。家族たちは疑念にかられつつも、なんとか平穏な生活に戻りたいと、何もないかのように装うが、時折現れる白いドレスの中年女性。そして花嫁衣装をまとった老婆。無数の死体。

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頼りのエリーズはすでに死んでしまった。そこでジョシュの母親は、エリーズの弟子であるスペックとタッカーそしてカールに事態の調査と解決を依頼する。

そこにはパーカーという男が浮かび上がってくる。そして、この男の霊が鍵を握っていることが判明するのであった。

・・・と、オカルトホラーなのだけども、霊とのバトル、サスペンスの要素が非常に強く、1作目が単にオカルトと家族愛を描いただけに近かったものが、本作では激しいアクションもあり、謎解きもありと、沈黙の何とかシリーズのような仕掛け満載のオカルトホラーアクション作品となっている。

ストーリーも、1作目の安穏とした家族愛を否定するかのように、事態の鍵を握るパーカーという男の崩壊した家族像が登場し、死んだ霊能力者エリーズが霊のまま大活躍とジェームズ・ワン監督+リー・ワネルらしいスリリングな作りがイカしている。

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特筆すべきは、父親ジョシュを演じるパトリック・ウィルソン

ジェームズ・ワン監督作の常連だが、いつも、イケメンのやさ男だったり、ただ人のいい人物だったりと、いまひとつ毒気のない"陰の薄い”役が多かったが、ここに来て、とてもいい父親と、(霊に取り憑かれ凶暴化し狡猾になった)父親の二役を、見事に演じ分けている。特殊メイクの力もあるのだろうが、話し方(口調)、目つき、まるで異なり、これはすごいと筆者は絶賛であった。パトリック・ウィルソン。一皮むけた。そのような印象であった。

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また霊能力者エリーズの格好良さ。演じるはリン・シェイ。ホラー映画の常連で妙齢の御仁だが、なんともスタイリッシュに事態をひょいひょい解決していく。人情味のあるところもキャラ立ちしている。

SAW(ジェームズ・ワン監督+リー・ワネルの創作)シリーズの毒々しさから、抜けだし進化した新たな傑作といっても過言ではないだろう。

 

ともかくインシディアスそしてインシディアス第2章。2作品あわせて、一部の好きな方は必見。

普通の方には、あえておすすめはしない。


『インシディアス 第2章』映画オリジナル予告編 - YouTube

【PC】ネット動画ビジネスの二度目の終焉

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かつて、2000年頃に「これからは動画ビジネスの時代だ」と、ネット上で盛んに動画(ビデオファイル)がアップロードされ公開、ビジネスとされた時代があった。ちょうど光回線によるブロードバンドで大量のデータを高速に配信することが可能になったのと連動し、さまざまな事業者が動画配信サービスを開始したが、これは結局ビジネスにつながらず終焉を迎えることになった。

当時、まだテレビが動画の主体であったこと、今のようなスマホタブレットがなくパソコンしかなかったこと、パソコンの利用法で動画を目的とする人口そのものが少なかったことなど、消費者・視聴者の受け入れ体制が未整備で、いわば先端すぎて誰もついてこれなかったというようなことが終焉の一つの理由だと言われている。

それでも細々と事業者の試験的な運用はつづき、スマホタブレットの普及にともない、今度は You Tube をきっかけとして動画配信ビジネスはにわかに活気づく。

スマホタブレットの回線も 3G→LTEと大容量高速化し、一度目の終焉の時代とは異なり、消費者・視聴者の受け入れ体制は整ったように見えた。動画配信事業者も You Tube を筆頭にニコ生、ツイキャスなど増え続け、GoogleYou Tube を買収してからは、「動画広告」が挿入されるようになり、PV(ページビュー・閲覧数)によって広告費が動画の投稿者に支払われるようになり、それがマスメディアで大きく取り上げられるなど、ここ2~3年の進化と発展の勢いは大きなものであった。

当然「これからは動画ビジネスの時代だ」と、かつて一度終焉を迎えた景気のよいテーゼは復権。”好きなことで生きていく”というマルチの勧誘のようなキャッチコピーで Youtuber という動画配信で人気を博し、それで生計を立てるようなライフスタイルも登場、大きく話題となった。

さらには HTML5 というブラウザの表示規格(のようなもの)が登場し、Flashというリッチコンテンツが基本的にはスマホには搭載されていないという技術的事情、スマホの画面の小ささという事情などから「目立つには動画だ」と、Flashから JavaScript にとって代わられた”わりと地味な”リッチコンテンツに代わって「これからは動画」だと、ありとあらゆるページに「動画のCM」が流れるようになった。

動画ビジネスは、今後ますます拡大機運のように見えた。

しかしここに来て、Youtube が PV に対する広告料を 4分の1ほどに減らす。

Youtuber と呼ばれる”好きなことで生きていく”方々は、それでは生計を立てられなくなりはじめ、今後は動画で生計を維持することはできず、縮小していくことだろう。

また、昨年は、いたるところに動画CMがあり、マウスを近づけると巨大化して再生を始めるなど、ずいぶんと見かけたものだが、ここ最近それがずいぶんと減っている。こちらも縮小機運だ。

ネット動画ビジネスは二度目の終焉を迎えようとしている。

なぜ、そうなるのか。

非常に簡単な話で、ユーザーは映像として放送として完成度の高い作品、たとえばスポーツの実況中継や映画作品など「動画コンテンツ」を見ることはあっても、それ以外は移動時間の数分間に、記事を読みたくて、あるいは画像(写真)を見たくてネットを利用しているわけで、CMを見たくて見ているわけではない。

メインとする自分の読みたい見たいコンテンツに、強制的に割り込んでくるCM動画は「ウザイ」というわけだ。それが例え数秒間のことであっても「ウザイ」ものは「ウザイ」。静止画像のCMであれば興味があるときにクリックすれば(ハイパーリンク)済むが、動画の場合は、時間も何もかもをユーザーから奪う。

このことが嫌われていることは大きい。

テレビのように「ながら見」が出来るのなら話は別だろうが、スマホタブレット、PCの場合は、BGVというわけではなく何らかの目的で利用していることが多く、その没入感や目的意識の中、要求していないCMが強い主張をもって表示され、ユーザーの時間を強制的に奪うこと事態に嫌悪感を覚えるわけだ。

このことは、例えば YouTube の視聴者の多くが小学生だったり、ニコ動の視聴者の多くが中学生であったりする統計・推計情報からも明らかだ。(つまり、もてあました時間があり、金を持っているわけでもなく、コンテンツに強い目的のない、テレビではないものとしてテレビ的に流し見している世代で、コンテンツの内容にさほど品質を求めていない方々)

さらに、その効果について、例えば大人の女性向けの商品(化粧品など)を製造販売している企業がCMを出すには、そのコンテンツを大人の女性が見てくれなければ効果はないわけで、動画CMを出したところで小中学生しか見てくれないのなら、じゃあ他に広告費を使うよとなっても、それは至極当然のことだったりもする。

また、せっかくの動画CMを出しても、それが嫌悪感をもたれては、CMの意味がない。どれほど素晴らしいCM映像をつくったところで、それが、2000年頃の JavaScript だらけのキラキラしすぎの醜悪ページと同じように見做されるのであればどうしようもないというわけだ。

 

これらのことは、テレビとスマホタブレットの情報の受け取り方の違いを理解できていないことから起こるように筆者は考えていたりする。

すなわちテレビは、古来家族みんなで見る(あるいは意図していなくても見てしまう)ような受像器だが、スマホタブレットは個人個人が手にとって、みんなで見ない。超プライベートな受像器だということだ。

ここに割って入ってのCMであるわけだから、その内容、その出し方も、もっとターゲット層を絞り混んだものでなくてはならないはずだ。しかし、マス広告の構造上、そうしたランチェスターで言うところの弱者戦略のようなことにはならない。強制的に見せる(時間を奪う)テレビのような手法を前提として成り立っており、クリックしてから再生ではなく、強制的に見てもらうためのつくりになっている。仮にこれをクリックして再生するのであれば、静止画と同じだ。動画CMである意味がない。言い換えれば、テレビと同じ手法・同じ考え方の従来の広告代理店的発想はありえないということでもある。

 

そしてネット動画ビジネス(とくにCM)は二度目の終焉を迎えようとしているわけである。反面オンデマンドサービス、作品を放送するネットサービスは今後は延びていくことであろう。動画CMも、この番組内なら役立つかも知れない。ただ、いずれにしても、数チャンネルしかないテレビで視聴率を競う感覚では、数万チャンネル、数十万チャンネルにも及ぶネット動画配信サービスの中では厳しいだろう。

 

はたしてそれを誰が見るのか。どういう効果を期待するのか。こうした視点が抜け落ちている気もしたりする。気づかないのか、知っているのだがあえて言わないのか。それはよくわからないが、いずれにしても、広告の原点を見直す必要があり、なんらかのイノベーションが求められるのである。

【映画】96時間

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娘を誘拐されたお父さんが娘を救うためという正義を振り回して次から次へと人を惨殺していくサスペンス・アクション映画。その優しいまなざしで過激なアクション映画とは縁がなさそうなリーアム・ニーソン、娘が誘拐された救出作戦をリーアム・ニーソン1人で決行するという破綻したストーリー、救出のためなら親友の妻を撃ち殺しても構わないという過激さ、どれもこれもが予想を裏切る新機軸のアクション映画が「96時間」である。

原題は「Taken」。誘拐とか拉致という意味。ある日、海外旅行先で最愛の娘が誘拐される。誘拐を知ったお父さん(リーアム・ニーソン)、元CIAの特殊工作員だった能力を如何なく発揮し、たった1人で娘を助けるため行動を開始する。

あっという間に誘拐犯の手がかりを掴み、誘拐犯の組織の構成員を、次々と虐殺。瞬殺、瞬殺、瞬殺、うむを言わせず瞬殺、知的なジェントルマン、その優しいまなざしのリーアム・ニーソンが60歳を過ぎて、走る飛ぶ殴る蹴る、電気で拷問し、親友の妻を撃ち殺す、正義もへったくれもないような暴走ぶりで、ついに誘拐犯組織の大富豪に辿り着く。大富豪は「交渉を・・」と言うや否や撃ち殺され、無事、娘は助け出される。

それまでのリーアム・ニーソンのイメージを無視したような役柄、いくら溺愛する娘のためとは言え容赦なく非道の限りを尽くして虐殺していく展開、これまでになかった新機軸で大ヒット、続くリベンジ、そして現在公開中のレクイエムと、過激な暴走親父3部作となった。

「娘を溺愛する頭のよいキ○ガイ親父が法も正義も無視して暴れるアクション映画」それをリーアム・ニーソンが主演。いい意味なのかどうなのか疑問だが、ともかくリーアム・ニーソンの新しいイメージを構築したことには間違いがない。

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なお本作に「娘が誘拐された。娘を助けるためだ、仕方がない」という大義名分や、正義感、主人公の葛藤はない。誰もが納得できるような理由がなく、いくら娘を助けるためだといっても、いや、そこまでしなくても・・・と思わせるような暴れっぷり。そして余りの圧倒的強さで、この手の作品にありがちなハラハラドキドキ感がなく、それがこれほどの爽快感、痛快さを産んでいるのだろう。

重要なのは、このキレまくりの役柄をリーアム・ニーソンが演じているところ。もし本作が、いかにも強そうなアーノルド・シュワルツェネッガーや、ジェイソン・ステイサムシルベスター・スタローン、そしてスティーブン・セガールだったら、ここまで面白くはなかったように思ったりする。


映画「96時間」トレーラー - YouTube

【仕事】良いモノを作れば売れる時代は終わった。

今週のお題「今だから言えること」

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かつて日本の高度成長期には「作れば売れる」時代は確かに存在した。毎年毎年、新製品が出れば誰もが飛びつくように買った時代、それはすなわち「作れば売れる」時代でもあった。これはバブルの頃まで延々と続き「よいものを作れば必ず売れるのだ」という神話、あるいは都市伝説を産み出す土壌を形成した。

その「よいもの」とは何か。

ものづくりに於いては、ものの価値は「品質(できばえ・みため)」「納期」「コスト」の3つが基本で、これ以上にはない。

例え誰かが「新しい価値観だ」「イノベーションだ」と言ってみても、それは「品質(できばえ・みため)」と「納期」と「コスト」の3要素の組み合わせが少し異なるというだけで、ものづくりに於いては抜本的に全く新しいものは存在しない(と、考えて間違いはない)。

すなわち「よいもの」とは、この3つの要素について「以前より良い」ものということになる。買い手は「以前より良い」ものであれば買っていたわけだ。

そして作り手・売り手・技術者・販売者は、いつも「以前より良い」ものは「売れる」と確信し「よいものを作れば必ず売れるのだ」という神話、あるいは都市伝説を信じ込んでいった。

しかし時代は下り、そうした「よいものを作っても売れない」時代が到来する。いくら「よいもの」を作っても売れないので、今度は「買い手が欲しがるものを作れば売れる」という「よいもの」とは「買い手が欲しがるもの」になっていく。

実は「(以前より)よいものを作れば売れる」も買い手からすれば「それを欲しがっている」わけだから、マーケティングとして考えれば同じことなのだが、ともかく「買い手が欲しがるものをつくれば売れる」ので、と、モノは次から次へと高機能化していく時代へと突入する。

それはガラパゴスなんとか、と言われるほどに標準的な同様の製品から外れた独特のものづくりへと変貌するが、ここで3つの要素を考えると、機能=品質が増大するのだから、当然、納期あるいはコストも増大するわけだが、買い手はそれを納得していない様子で、機能はアップ、納期とコストは早く安くと、ものづくりの基本構造を無視した「それを欲しがる」ことになっていく。これは歪みである。

スティーブ・ジョブスは「ユーザーは自分が何を欲しているのか知らない」と言っていたが、まさにその通りで、ユーザーはその製品の完成品について意見することはできても、これからつくる製品について正確に意見することは難しい。そのような機能が欲しいのか、どのような製品が欲しいのかを問うても、聞かれたから思いつくことを並べるだけのことで、本当に欲するものではない。なぜならユーザーは、ものづくりの専門家ではないからだ。そして多様な意見を製品に反映させた結果、高付加価値と呼ばれるあれもこれも何もかも、な製品が世に氾濫しつつも、これもまた「売れない」ことになっていった。

 

いくら「よいものを作っても売れない」時代。

 

「良いモノを作れば売れる時代」は、もうずいぶんと前に終わってしまったのだ。

 

しかし反面、それが売れた時代もあった。

 

どのように考えればよいのかといえば、これらの問題の本質は「ユーザーの価値観」ということに尽きる。価値観は時代によって変わる。「(以前より)よいものを作れば売れた時代」は、それが価値観だったのだ。また「高機能・高付加価値」の時代は、それが価値観だったのだ。そして、この二つの時代の共通項は「みながみな、そうだった」ことだ。誰もが同じ価値観を持ち、となりの芝生が青く見え、たった一つの価値観での勝ち負けを意識し、ということでもある。

そして「よいものを作れば売れる」神話・都市伝説の中では、それらは「コンセプト」と呼ばれ、できるだけ多くの共通項を含んだ「コンセプト」や「価値観」を探すことに主眼が置かれ続けていた。今・現在も、そうした「コンセプト」や「価値観」探しは続いている気もする。しかしなかなか見つからない。「誰も彼もが同じ価値観」ではなくなってきているからだ。

 

現在においては、”誰もが同じ価値観”で、同じ一つのコンセプトを求めるという仮定も、揺らぎつつある。もはやすでに揺らいで倒壊しているかも知れない。

一言でいえば「価値観の多様化」ということになるのかも知れない。

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例えば図のようなコンセプトであっても、今は売れないのだ。(品質はどこでも同じ、コストと納期について、差別化している。一時代前ならこれで十分に売れただろう)

Aさんが欲しくても、それはBさんが欲しいとは限らない。

Bさんが素晴らしいと絶賛しても、Aさんは蚊帳の外。

ではAさんもBさんも欲しがるように、Aさんの欲しがる点・Bさんの絶賛する点を取り入れた高付加価値商品は売れるのかといえば、Aさんも、Bさんも買わない。

Aさんにとって、Bさんの絶賛する機能は、むしろ不要だ、あっては困るわけで、

Bさんにとって、Aさんの欲しがる機能は、むしろ不要で、あっては困る。

AさんとBさんの両方の要求を満たすようにしたところ、Aさんの要求にもBさんの要求にも応えられなくなるというわけだ。

 

はてさて、こうした「価値観の多様化」に対して、3つの要素=品質(できばえ・みため)、納期、コストはどうあるべきか。今もって「(以前より、あるいは、他の製品群より)良いモノをつくれば売れる」と、いかに信じようが売れないものは売れないのだ。たとえ「Aさんがこう言ってるから、この機能もつけて、Bさんがそう言うので、その機能も」と、てんこ盛りにしたところで、やはり、売れないものは売れないのである。それはどれほど「著名」であっても直接的な意味はない。なぜなら、その押し売り的価値観を、人は共有しない時代だからである。

 

では、どう考えるとよいのか。

答えの一つは「シンプルぷるぷる」にあると筆者は考えている。

品質(できばえ・みため)のシンプルさも、さることながら「わかりやすい(理解しやすい)」「それがユーザーにとって最良の選択肢のひとつであることがカンタンに理解できる」そういった「シンプルぷるぷる」さ。

「すごい」「売れている」「みんな買ってる」ではなく、(あなた個人にとって)わかりやすく、理解しやすい、なじみやすい、使いやすいなど。

もちろんこれらは「一つの価値観を提示しているわけではない」のでメガヒットにはつながらない。しかしあっちの小集団、こっちの小集団に売れるのである。

意外なことだが、かつてのものづくりでは、一度もこれが出てきたことがないのだ。その理由はさておき、またの機会に「シンプルぷるぷる」について解説してみたいと思う。